言葉は時として凶器になる

どうも、こんばんは。

おやごころです。

 

今日は衝撃的なニュースがとびこんできたので、そちらに関連したお話をしたいと思います。

 

タイトルにも書きましたが、

『言葉は時として凶器になる』

 

今でもはっきり覚えていますが、これは私が小学6年生の頃に、読書感想文で選んだ本の中に書いてあった言葉です。

 

この言葉は、亡くなった本人が最後に残した言葉で、そのことに気づけないあの子たちの方がもっとかわいそうなんだよ。と続けられていました。

 

あまりにも衝撃的な一文だったので、10年以上も前のことですが、鮮明に覚えています。

 

どうして、こんな思いをしなければならなかったのか。

どうして、こんなに苦しんでいることに気づいてあげられなかったのか。

どうして、親である自分が子どもの命を救うことができなかったのか。

 

と、死ぬまで自責の念に駆られ続けると思います。

 

親になった今、ご両親がどんな思いで本にしたのか、何を伝えたかったのか、何を望んだのか、当時の私よりよくわかる気がします。

 

子どもの死について書くことで、同じような被害にあう子どもたちや家族をなくしたい。

その一心だったと思います。

 

あれから十数年たった今でもいじめはなくならないどころか、SNSの発展とともに、言葉のもつ威力が増してきているように感じます。

顔のみえない、どこの誰だか知らない人たちからの心ない言葉を毎日無数に浴びせられる、そんな攻撃を受けている方がたくさんいるようです。

自分の発する言葉への責任のなさが伺えますね。

 

今回の事件もたくさんの知らない人からの心ない言葉が凶器になり、悲しい結末になってしまいましたが、命を落とさなければ、ことの重大さがわらない、やってしまったことの重みに気づけない、それってどうなんでしょう?

 

自分はそんな気持ちで言っていないなどの言い訳もよく耳にしますが、

大事なのは、あくまで言われた側がどう思うか、どう捉えるか ではないでしょうか。

だから、自分の発する言葉に責任をもち、言われた側がどう思うかに思いを馳せる必要があると思います。

 

子どもたちと関わる中では、そのことに重点をおいて、けんかの仲裁をしたり、諭したりしています。

 

一生懸命はなせば、子どもたちはわかってくれます。

一度で理解出来ない子ももちろんいますが、時間をかけて、何度も立ち止まって、同じことを何度も言い聞かせます。

私たちが諦めてしまうと、その子どもはこの先、誰かをもっと傷つけてしまうかもしれません。それだけは絶対に避けなければと思い、時には心を鬼にして叱ることもあります。

 

最近は特に、喧嘩は良くないと捉える保護者が多いように感じますが、喧嘩は時としてたくさんの学びが得られる機会にもなり、しいては子どもの心の成長を促すことにもつながると思っています。

 

幼い子どもたちは、相手の立場になって考えたことなんて、なくて当然かもしれません。

だから身近な『大人』が教えていかねばならないのではないでしょうか。

 

言葉が時として凶器になること

人の心の痛みを理解する(思いやりをもって接する)ことで救える命があること

 

どんな子でも絶対に理解できる、私はそう信じているし、またその子どもたちが大人になって出会う子どもたちにも、同じように伝えていってもらえるよう、懸命に伝え続けます。

 

小さなことかもしれませんが、これが私にできることかなぁと。

できることからコツコツと。

 

 

 

もちろん、我が娘にも。。。

 

 

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最後になりましたが、

安らかなご冥福をお祈りいたします。

 

おやごころ